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モンブランとシャモニの物語

 モンブランと氷河の話
モンブランとレンズ雲
モンブランとレンズ雲
  

 モンブラン(Mont-Blanc:フランス語で白い山の意)はヨーロッパ最高峰(4807m)であることはご存知だろうか(たまにマッターホルンの方が高いと思っている人もいるが)。万年筆のブランド名やケーキの名前(マロンクリームの上に雪をイメージした粉糖をたっぷりかけたケーキ)によって、姿かたちは別としても、名前だけは知らない人はいないだろう。フランスとイタリアの国境のモンブラン山塊の主峰で、その頂上部分はフランス領内にある。(イタリア語ではモンテビアンコ、やはり「白い山」の意)

 シャモニの町(標高1035m)から見ることもできるのだが、標高差が3500m以上もあるとは思えないほど間近に見ることができる。しかし町から見てすぐ右側にあるドーム・デュ・グーテ(4304m)の方が高いと錯覚しやすい。荒々しいボソン氷河を前面に据えて、山頂を少しばかりのぞかせているのだが、白くて優美な美しい山といえる。
 

 モンブラン初登頂
パカーとバルマ(後ろから)
ソシュールとバルマの銅像
 (後ろから)

パカーとバルマ
ソシュール(右)とバルマ
 (左)の銅像(前から)
ソーシュールの像
パカーの銅像
1760年、スイスの博物学者ソシュール(Saussure)が氷河を観測するためにシャモニを訪れ、モンブランとシャモニ渓谷を挟んで位置するブレバンに登頂した。彼は他の山々をすべて見渡せるモンブランの自然科学的な意義に気づき、この山への登山ルートを見つけた者に莫大な賞金を出すことを約束した。当時の技術や道具では、ルートの選択は決定的に重要なことだったことによる。多くの挑戦が試みられたがすべて重大な障害に阻まれた。それは、「人間は高い山の上で夜を過ごすことはできない」という誤信と、「呪われた山、モンブランに登れば生きては帰れない」という迷信だった。そして誰も成功することはなく、26年間もの歳月が流れた。

1786年、ある登山隊がモンブラン山塊のボス(4513m)の山陵に到達した。この時、悪天候により引き返さざるをえなかったが、水晶細工人(水晶採掘者、猟師)のジャック・バルマ(Jacques Balmat)は雪の中にうずくまって嵐の去るのを待ち、氷河の上で夜を過ごした。翌朝、彼は付近の雪原を視察したあと無事にシャモニの町に戻った。彼の生還は絶望と思われていたので、この露営は山男たちの迷信を取り除くこととなり、一気に登頂の機運が高まった。 

 シャモニ生まれの医師、ミッシェル・パカー(Michel-Paccard)はバルマとは知己の仲であった。バルマが賞金とモンブラン初登頂の野心をいだいていたのに対し、彼はソシュールが自然科学に没頭する科学者であるように、気圧計をモンブラン山頂に持って行って観測してみたいと思っている、山に魅せられた男だった。
 1783年に彼はスイスの旅行家であり作家であるマルク・ブーリー(Marc Bourrit)と登頂を試みたが失敗していた。その後の数回の試登を繰り返していたが、モンブラン山中から生還したバルマと登頂計画を練り、1786年8月7日に登攀を開始した。ボソン氷河上部のコートの山頂に露営し、翌8日朝4時には氷河地帯に突入した。そして18時23分に2人一緒に頂上に達した。この様子はシャモニから望遠鏡で見守られていた。しかし野営地への夜間の帰路は大変な難行だった。往路で帽子を失っていたパカーはほとんど雪盲の失明状態にあり、翌日、バルマは彼の手を引いて町にたどり着いた。(当時のフランスは革命直前にあり、日本では江戸時代の後半、平賀源内が活躍していた頃になる)

 登頂ルートを得たソシュールは翌年、召使1人とバルマを含めたガイド18人ものキャラバンを編成して(荷物には折りたたみベッドからスリッパまであった!)登頂し、観測を行った。以降、ヨーロッパ最高峰のモンブランは多くの人に登頂されることになり、同時に、山に登ること自体を目的とした登山がスポーツとして認められるようになった。そしてモンブランの麓の町シャモニはその登山基地として、やがてはモンブランと氷河の観光の町として発展することになる。
 
 銅像の謎
 シャモニの街の中心部には、2人がモンブランを見つめている銅像と、少し離れた場所に1人だけで座っている銅像がある。これを見れば、「2人の銅像は初登頂を果たしたパカーとバルマで、1人の銅像はスポンサーのソシュールなんだろうなあ」と思うのが自然ではないだろうか。実は2人の像はバルマとスポンサーのソシュールで、1人の像はパカーなのだ。なぜ、初登頂を果たした2人が別の像になっているのか。この変な話にはワケがあった。

 初登頂がなされると、シャモニの町は大騒ぎになり、偉業として讃えられた。一方で、面白くないのは初登頂に敗れた登頂失敗組で、パカーと一緒に登ったこともある旅行家のマルク・ブーリーは町中にデマを流した。「パカールは人事不省となりながらもバルマが山頂に達したのち、バルマによって山頂に引きずりあげられた。初登頂はバルマであるべきところをパカーは自分の功績のようなことを書いた著書を出版しようとしている」という小冊子を出版した。特にバルマも否定しなかったため、パカーの功績は否定され、初登頂の翌年に作られた銅像は、バルマとソシュールだけになった。
 しかし、シャモニの町からバルマとパカーの二人の行動の一部始終を見ていたドイツ人のゲンスドルフの日記が発見されたことなどから名誉回復を果たし、登頂200年祭の1986年にパカーの銅像が建てられることとなった。
 2人の像に比べてずっときれいではあるが、調子こいてモンブランを指さしているバルマをにらみつけているようにも見える。

 
 スキーの聖地シャモニ
絵葉書
絵葉書より
 スキーヤーにとって、シャモニという町は聖地と呼べるのではないだろうか。モンブラン初登頂から1世紀後、ミッシェル・パイヨーという医師が孤立した部落を往診するために、それまで北欧諸国で使われていた雪面を移動するのに便利な道具 −ノルディック・スキー− をシャモニに広めた。やがて改良が加えられ、平地を移動するノルディックに対し、山岳を滑り降りるスキーはアルペンと呼ばれるようになるのだが、1924年に第1回冬季オリンピックがシャモニで開催されたことからもスキーの中心地であったことが分かるだろう。
 また、パイヨーは、冬季観光を整備したという功績も大きい。シャモニはモンブランや氷河の見物で有名になり、パリやロンドンから馬車で何日もかけて訪れるほどヨーロッパでは有名なリゾート地となった。(トラベラーズチェックの草分け、トーマスクックは、この時の観光客の便宜をはかるために誕生したという) 
エギュイーユ・デュ・ミディ
ミディへのロープウェイ
エギュイーユ・デュ・ミディへの
 ロープウェイ


ミディとロープウェイ
エギュイーユ・デュ・ミディを望む

 シャモニは、夏は登山や避暑などのバカンス、冬はスキーといった観光都市(人口は1万人程度だが)として発展することになる。その大きなささえとなったのが、登山鉄道やロープウェイである。あなたがスキーヤーであるならば、恩恵を受けるのはなんと言ってもエギュイーユ・デュ・ミディのロープウェイだろう。エギュイーユ・デュ・ミディはモンブラン山塊の尾根にある、ひときわ高い針峰で、シャモニの町に隣接するように位置している(町からは、頭上にあるように見える)。3842mの高度からは、モンブランはもちろんのこと、バレ・ブランシュ、ジュアン氷河、ボソン氷河、グランドジョラス、シャモニの町と渓谷、ブレバンの山を一望にできる。そしてスキーヤーはここから、あのバレ・ブランシュの長い氷河スキーを一日かけて楽しむことができる。

このエギュイーユ・デュ・ミディのロープウェイは、乗るだけでも価値がある。シャモニの駅(1030m)から第一区間の終わり、プラン・ド・エギュイーユ(2309m)までを最高時速26km、最大勾配90%で登り、乗り換えの後、エギュイーユ・デュ・ミディのピトン・ノール(3802m)までの第二区間を最高時速38km、最大勾配100%(!)で登る。 

このロープウェイ、1955年に完成したのだが、建設は容易ではなかった。直径14mm、長さ1700mのケーブルを分割せずに山頂まで引き揚げるのに30人のガイドたちが互いの体を鋼のロープで結び、肩に固定した木の枠を背負い、約30kgのケーブルをリュックサックに巻きつけて登った。機材が揚げられ、岩を穿ち、完成までに2名の犠牲者を出した。
 富士山よりも高い場所にロープウェイの駅を建設するという発想は、日本人には真似できないものがある。しかしそのおかげで、昔ならばごく一部の体力と技術を持ったものだけに与えられた楽しみを多くの老若男女が享受できるのだ(私が登った時は、テラスには赤ん坊までいた!)。

 
氷河スキー
 もしも一般スキーヤーがヘリを使わずに「広いところでスキーをやりたい」というのなら、アルプスの氷河スキーに勝るものはないだろう。視界を遮るものは無く、ただ真っ白な世界を滑っていると、地球を滑っているという実感が湧いてくる。もっとも、単に広い場所でのスキーというならば、事情を知る人によれば、トロアバレーやバルディゼールの方が広いという。しかし、バレ・ブランシュの魅力は、その高度(3800mは、一般スキーヤーには限界に近い)による絶景と、グランドジョラス、ダン・デュ・ジェアン、ドリュー峰といった、見る者を圧倒する景観の山々がオカズになっていることにある。

 この氷河スキーで注意しなければならないことは、必ずガイドがいなければならないということだ。ガイド無しでは滑る許可が下りない訳ではないが、氷河のコースには、立ち入り禁止区域のロープや、クレバスのような危険物に対する警告など無いからだ。「スキー場なのだから、安全だ。困ったことになれば、誰かきっと必死になって助けてくれる」という日本人的発想は通用しない。一人でノコノコ危険な方向へ滑り降りていっても、止めてくれる人はいないことを前提にした方がいいという。
 バレ・ブランシュの氷河スキーの詳細はこのサイトの「海外スキーレポート」の、「シャモニ」をご覧いただきたい。シャモニはバレ・ブランシュのような大氷河があるが、ロニオン・グランモンテのアルジャンティエール氷河も印象深い。ロープウェイで繰り返し滑ることができて、しかも下部は普通のスキー場と接続しているという、実にカジュアルで本格的な氷河もあるのだ。
 
バレブランシュとダン・ドゥ・ジュアン
ダン・ドゥ・ジェアンを正面に
 

ソシュール
ジャック・バルマ
ミッシェル・パカール
マルク・ブーリー


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