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アルプスと氷河の物語

 マッターホルンとの出会いから
ゴルナグラート駅を降りてすぐから、マッターホルン
セントバーナード

 私がアルプスという山々に興味を持ったのは、1999年の12月、ツェルマットを訪れ、ゴルナグラートからマッターホルンを初めて間近に見てからだった。もともとマッターホルンと言えばヨーグルトのパッケージとか、カレンダーのデザインなどを通じて、身近な山であった。この山にセントバーナード犬といえば、梅にウグイス、月に雁といった定番の取り合わせとしてイメージされているだろう。しかし、実際に見たマッターホルンには、絵や写真によって平面的に見ていた場合とは全く異なる、強烈な印象があった。
 それまでは、スキーを通じて多くの冬山を見て、写真に収めたりしたものだが、これほど絵になる山は見たことがなかった。見る方向によって表情は大きく異なるが、東壁・北壁の、ヤスリで磨きあげた矢じりのような山肌は、とても自然による造形物とは思えなかった。「いったい、何をどうすればこんな山ができるのだろうか」「なぜ、日本にはこのような山が存在しないのだろうか」アルプスに対する関心は全て、ここから始まった。  
 

 
アルプスの誕生
 アルプスという名は、ケルト語で山、または高地の牧場を意味する「alb」または「alp」、ラテン語で白を意味する「alb」が語源といわれ、ドイツ語ではアルペン、フランス語ではアルプ、イタリア語ではアルピ、英語読みがアルプスとなっている。
 アルプスの山々を形成した、アルプス造山活動は、はるか中生代(2億4千万年〜6千5百万年前)にさかのぼる。中生代は古いものから三畳紀、ジュラ紀、白亜紀に分類され、造山活動は最後の白亜紀ごろに活発になり、新生代第三紀まで及んだというが、広義には現在も続いているとされている(モンブランは現在も1年に0.1cmずつ隆起し、0.4〜0.5cmずつ侵食されている)。地球が誕生した約34億年前から現在までを1年の暦に置きかえると、中生代は12月の半ばにあたるので、地球という天体としては最近のことになるのだが、地質学的には、アフリカ大陸と南アメリカ大陸がまだ完全に分離していない頃であり、決して新しい方ではない(この暦によれば、クロマニヨン人が登場してから現在まで、2分しか経っていない)。つまり、造山活動によって山を作り、急峻な谷間を形成するには十分な時間であったといえる。(ちなみに、ジュラ紀はスイスとフランス国境のジュラ山脈の石灰岩が形成された時代として命名された)
 アルプス造山活動とは、本来は、西はモロッコのアトラス山脈から、東はトルコ、イラン、ヒマラヤ山脈、東南アジアのアラカン山脈、スマトラ島に至る長大な範囲に及ぶ地殻変動を指す。ヨーロッパ・アルプスに限って言えば、かつての地中海の海底に次々と堆積した地向斜堆積物が、北上してきたアフリカ大陸のプレートと北側にあるユーラシア大陸のプレートとの間に挟まれて圧縮され、巨大な力で北(または西)へ押し上げられた地殻変動を意味し、北側(西側)に凸面を向けたアルプスの外形も、こうした押上を裏付けるものとされている。
 新生代第四紀にはアルプス全体が氷河に覆われ、その激しい侵食を受け、現在の景観を見せるようになった。針状の岩峰(針峰:エギュイーユ)や尖峰(ホルン)、深いU字谷、カール(圏谷)も氷河に削られて形成された氷河地形である。マッターホルンも複数のカールが氷食によってけずられ、相接するようになってできたピラミッド型のホルンで、1500メートル以上の急壁がそびえる。
 
アルプスの歴史
 アルプスの歴史はヨーロッパ南北を結ぶ峠の歴史であり、登山の歴史でもある。紀元前218年、カルタゴのハンニバルが2万6千の兵と38頭のゾウを率いてアルプスを超えローマ帝国に攻め入ったのは有名だが、ローマ人によってアルプス以北にローマ植民市が次々と建設されると、アルプスはヨーロッパの交通の十字路となった。しかし一般にはアルプスは魔神のすみかとして恐れられ、登山の対象となったのは比較的最近のことである。
 1786年スイスの学者ソーシュールがシャモニのパカーとバルマの2人にモンブラン(4807m)を初登頂させ、翌年自らも第2登を果たしたことにより、登山そのものを目的とした、アルプスの近代登山が始まった。1809年、スイスのマリー・パラディスが女性として初のモンブラン登頂、11年にはマイヤー親子(スイス)のユングフラウ(4158m)、55年スマイス兄弟ら(イギリス)のモンテ・ローザ(4634m)、61年ハーディ(イギリス)のリスカム(4527m)、チンダル(イギリス)のワイスホルン(4505m)など、初登頂が次々と達成された。そして65年、ウィンパー(イギリス)によるマッターホルン(4478m)によって名のある4000m級の山の初登頂は幕を閉じた。このマッターホルン初登頂の下山中、7人のパーティの4人が遭難死する事件があり、登山が社会問題視されたこともあって、一般の登山熱が一時的に、冷却してしまう時期があった。
 初登頂の時代が終わると、アルプス登山は、より困難なバリエーションルートによる登頂、より困難な冬期登頂にアルピニストの興味が移っていく。この思想的背景となったのがマリリーで、マッターホルンのツムット稜など難コースから登頂することによって、自然に挑む人間の意志と力の限界にまで登山活動を高めようとし、その思想はママリズムと呼ばれ、後の登山者に大きな影響を与えた。バリエーションルートの登頂はマッターホルン、アイガー、グランド・ジョラスの三大北壁によって象徴されるといえる。マッターホルン北壁は1931年シュミット兄弟により、アイガー北壁は38年ヘックマイヤーらにより、グランド・ジョラス北壁は35年ペーター、マイヤーらによて初登頂された。
 現在、この舞台はヒマラヤ山脈に移され、単独登頂や無酸素登頂など、困難の種類も増えており、同じ山の登頂でも、どこからどのように達成されたかが注目されるようになった(アガり役を競う点で、麻雀に似てきたといえる)。
 なお、日本人によるモンブラン初登頂は1921年日高信太郎による。
 
氷河の話
 (氷河はなぜできるのか)
 せっかくだから、氷河の話を少し。氷河とは、地上に降り積もった雪が次第に厚くなって氷となり、重力によって流動するようになったものをいう(私は子供のころ、氷河とは、氷河期の氷で今でも残っているものだと本気で思っていた)。降ったばかりの雪の結晶の間は空気で満たされているが、積雪が厚くなると重みで隙間が押しつぶされ(圧密)空気が抜けて固くしまった雪になる。次第に密度を増していき、降ったばかりの時よりも密度が10倍近くになると、空気は気泡となって閉じ込められる。これが氷河氷(ひょうがごおり)という。雪が氷河氷になることを変態といい、夏冬の季節があると比較的早く進むが、南極のような場所では、数百年かけて進行する。
 氷河の上流部では、その上に積もる雪氷の量(涵養量:かんようりょう)が融けていく量(消耗量)よりも多いが、下流部では、消耗量が多く、このバランスを質量収支といい、涵養量と消耗量が等しくなるなる均衡線を雪線という。南極のように全域が涵養域の氷河では、海に流れ込んで氷山となり、質量収支を保っている。
 積み重なった氷の重量と上流からの圧力により、氷河氷は流動体として振る舞い、その移動距離は、1日数十cmから1mにも達する。そして流動に伴い、氷が過度のひずみを受けると、伸張によって破壊され、深い割れ目のクレバス(crevasse:フランス語)が形成される。これがさらに勾配が急な場所を通過する時はズタズタに割れてしまい、セラック(氷塔)と呼ばれる氷の塊になって流下する。これは氷河の滝のように見えるので、アイス・フォール(氷瀑)と呼ばれる。このサイトのシャモニ・スキーにバレブランシュのセラックの写真がある。

(日本に氷河はあるか)
 日本には越年する雪渓が北アルプスや月山、鳥海山にあるが、氷河は存在しない。氷河期には日本アルプス、日高山脈に存在していたが、温暖になった現在では、氷河が存在するために必要な高度は上昇し、富士山よりもやや高いところが雪線になると見積もられている(富士山の高度が4000m以上あれば、地形次第で氷河ができる可能性がある)。ちなみにほぼ赤道直下のケニア山(ケニア、5,199m)には標高4,400m以上のところに氷河がある。

(氷河の種類と歴史)
 氷河はその広がりによって、大陸氷河(氷床)と山岳氷河に分類される。氷床は面積が100万平方キロメートルを超え、厚さは3000メートルを超えるため、山脈や谷などの起伏も隠されてしまうことが多い。現在は南極大陸とグリーンランドだけにあるが、この2つだけで地球上の全氷河面積の96%以上を占める。また、現在は陸地面積の約10%が氷に覆われているが、最も新しい氷河時代である、第四期(約200万年〜1万年前)の氷河期の最拡大期には30%に達し、特に北半球では氷床が著しく拡大した。そしてこの時、海面は100メートル以上低下し、ベーリング海峡は陸化し、北アメリカとユーラシアが陸続きとなり、動物群の交流や人類の南北アメリカ大陸への移動が起こったという。日本でも対馬、津軽、宗谷海峡は陸化し、動植物の侵入がおこっている。

 最後に、役に立つ知識を一つ。クレ
スとは、上で説明した通り、氷河における氷の裂け目のことをいう。「クレス」と発音すると、それはクレヨンとパステルの特長を合わせた、サクラクレパス鰍フ登録商標となる。間違えたくはないものである。
 
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