HOMEスーパーエッセイ! > オーストリア ケーブルカー火災

オーストリア ケーブルカー火災事故

 このページは、私がオーストリアのカプルンへスキーに訪れたレポートをUPするにあたり、この地で起きたケーブルカー火災事故については特別に切り離して立ててみたものだ。
 前半では、
この事故はどんなもので、どういう経過をたどったものかをドキュメンタリーとして説明し、後半では、私と事件のかかわりあい、そして実際にオーストリアのカプルンに行ったときの様子についてエッセイとして書いてみた。
 ◆カプルンの悲劇
  まず、カプルンの位置について。下はオーストリアの地図で、カプルン(Kaprun)はリゾート地として有名なツェルアムゼー(Zell am See)からタクシーで5分ほどの場所にある小さな町。そこからタクシーで10分ほど山を登ったところにキッツシュタインホルンのスキー場に上るケーブルカーの駅がある。
ツェルアムゼー 地図 
 
   カプルン-キッツシュタインホルン駅は下のGoogleの地図がわかりやすい。とくに航空写真を拡大して見ると、ケーブルカーの線路やゴンドラのロープまでが写しこまれていて、山上には氷河も見られる。
Kaprun
大きな地図で見る
 
【事故当日】
 2000年11月11日、この日はオーストリアのカプルンスキー場のシーズン開きの日だった。このスキー場はキッツシュタインホルン(3203m)の上部に広がるキッツシュタインホルン氷河をメインバーンとしていて、夏でもスキーができることから、年間を通じて競技スキー選手のトレーニングなどに利用されているのだが、一般のスキー場としての本格的な営業が始まるのはこの日からだった。
 カプルンの町から車で10分ほど上った場所にあるカプルン-キッツシュタインホルン駅(911m)には、乗客を山の上のアルピンセンター駅(2452m)へ運ぶケーブルカーとゴンドラの駅があり、客はどちらかを選ぶことができる。3.9km先のゲレンデまで、ゴンドラは空中を13分かけて上るのに対し、ケーブルカーは3.3kmのトンネル内走行があるとはいえ、9分で上ることができるので、多くの人がケーブルカーを選んだ。
 カプルン  
  ゲデンクシュテッテ(左)。奥にケーブルカー
の線路が見える
 
 カプルン  
  ケーブルカーの線路とトンネル。
廃止され、使われていない
 
カプルン  
  アルピンセンターの駅舎。
ここで従業員3名が亡くなった。
 
 ケーブルカーは2車両編成で最大180人の乗客を運ぶことができ、1つの車両は4つの客室に区切られていた。通常のケーブルカーと同じく、同型のケーブルカーが上と下を同時に出発してトンネル内の中間地点ですれ違うようになっており、動力は上部の駅舎にあるので、ケーブルカー内には運転手は乗車せず、燃料も積まれていなかった。そして最前方と最後方に乗務員室があるが、移動方向の最前位置の乗務員室に1人の乗務員(ドアの開閉をする)が乗り込むだけだった。
 11月11日9時2分、161名が乗り込んだケーブルカーは駅を出発した。左の写真にあるように、傾斜30度、渓谷が見える600mの距離を走り、山の中腹にあるトンネル入り口へと向かうのだが、出発してわずか20mで、最後尾車両の客室最後尾にいた乗客が異変に気付いた。誰もいない最後尾の乗務員室の制御盤から煙が出ていたのだ。その煙は乗客室に流れ込み、乗客が騒ぎ出した。しかし煙感知器はもちろん、先頭車両にいる乗務員に緊急事態を知らせる手立ても、消火装置もなかった。客室の窓をたたいて、はるか下の駅舎にいる人に知らせようと試みた人もいたが、誰も気づかず、ある客は携帯電話で外部との連絡を試みたが、すぐにトンネル内に入ってしまい、不通となってしまった。トンネルに入るころには炎が立ち始めていた。
 9時5分、トンネルに入って600mの場所でケーブルカーは急停止した。駅舎にある制御室のオペレーターはケーブルカーの乗務員に電話で尋ねたが、最前部にいた乗務員には何もわからなかった。これはケーブルカーが自動的に止まったものだった。
 9時6分、炎は急速に強くなり、車両には有毒ガスが充満し始めた。客はパニックになり、スキーのストックを使って窓を破ろうとしたが、衝撃に強いアクリルガラスは容易に割れなかった。全力で突いて穴が開く程度、やっと割れたと思ったら二重ガラスになっていた。
 9時8分、炎が客室にまで入り込んできた。このころ前方乗務員がやっと事態に気付いたが、通信装置が停止してしまい、制御室との連絡が途絶えたため、外部の制御室ではまだ事態を理解できていなかった。この時、ドイツから仲間とスキーに来ていた消防士トルシュテン・グレードラーは最後尾の車両の窓を破り、脱出に成功した。そして、25年間消防士をしていたグレードラーはその経験から、皆に下に向かえと叫んだ。最後方車両の窓を破って脱出した人々は炎から遠ざかる上方向よりも、炎をすり抜けてでも下方向へ向かい、上に登りかけた人も呼び掛けにより下へ向かった。そして12名の人々は歩きにくいスキーブーツで、暗くて狭い急斜面の非常通路を少しずつ下った。
 9時11分、制御室はただならぬ事態に気付き、救助を要請した。
 9時20分にはレスキュー隊が到着し、トンネルから出てきた12名の乗客(生存者)の救助を開始した。しかし残る149名の乗客と乗務員はトンネル内に取り残されたままだった。救助隊は消防士500名、ヘリコプター22機、救助車100台がかけつけたが、現場は山の中腹のトンネル内であったため、装備したレスキュー隊が線路づたいに上って現場へ向かった。しかしそこでは炎につつまれた車両があっただけで、このままではケーブルが切れて車両が落下してくる危険もあった。
 9時35分、やむをえず救助を断念し、ふもとで待機していた救助隊には緊急避難を指示した。そのころ、2.5km離れた山の駅から「駅の構内に煙が入ってきている」という連絡が入った。しかも、山全体が停電になっていた。山への電力を供給する電線はケーブルカーのトンネル内にあったので、火災によって切断されてしまったためだった。停電で開かなくなった自動ドアを手でこじあけて脱出した人もいたが、4名がショッピングモールに取り残された。
 10時10分、レスキュー隊はアルピンセンター駅に到着、運よく1名の従業員を発見、救出したが、残る3名はすでに亡くなっていた。駅の構内、ショッピングモール内の捜索は高熱と有毒ガスが強いため、捜索は打ち切られた。
 12時0分、特別に編成されたチームが再び上のアルピンセンターからトンネル内に入り、下りの車両を発見したが、乗務員とただ1人だけだった乗客の計2名はすでに亡くなっていた。そして火災現場に到着した際、取り残された149名に生存者がいなかったことを確認した。この中にはドイツのフリースタイルスキーの女子世界チャンピオン、サンドラシュミット(2000年1月にはW杯第3戦斑尾大会女子デュアルモーグルで優勝している。このとき上村愛子は5位)も含まれており、両親とともに亡くなった。また、日本人10名の中には元デモンストレーターの出口沖彦氏(42)、猪苗代町の中学校スキー部6名(出口氏の長女(13)も含む)、大学のスキー部員2名、その他単独の参加者などが含まれていた。

※事故に巻き込まれた人
ケーブルカー     乗客161名 (149名死亡 12名生存)
             乗務員1名死亡
下りケーブルカー   乗客1名死亡 乗務員1名死亡
アルピンセンター   従業員4名(3名死亡 1名生存)
             計155名死亡 13名生存

※死亡者(国別)
オーストリア 92名
ドイツ    37名
日本     10名
米国      8名
スロベニア   4名
オランダ    2名
イギリス    1名
チェコ     1名
      計155名

犠牲者の多くは若く、4分の1は未成年であった。
最年少はカプルンに近いマリア・アルムから父と15歳の兄と一緒に来た5歳の男の子で、
他にドイツに駐屯していた、テキサスから来た米軍兵の男の子も5歳だった。
この家族は米国の「復員軍人の日」による11月11日から始まる長い休暇で来ており、
両親と7歳の兄を含めて、一家全員が亡くなった。

※亡くなった日本人はいずれもオガサカスキーが主催するスキーキャンプの参加者。
出口沖彦  (42歳、元SAJデモンストレーター)
出口奈央  (13歳、福島県猪苗代町立猪苗代中学校二年・スキー部員)
小野寺雅信 (14歳、福島県猪苗代町立猪苗代中学校二年・スキー部員)
涌井智子  (14歳、福島県猪苗代町立猪苗代中学校二年・スキー部員)
上遠野紋佳 (14歳、福島県猪苗代町立猪苗代中学校二年・スキー部員)
佐瀬智寿  (14歳、福島県猪苗代町立猪苗代中学校三年・スキー部員)
楢原涼子  (22歳、慶應義塾大学三年・スキー部員)
光本沙織  (22歳、慶應義塾大学四年・スキー部員)
大山博和  (24歳、会社員、群馬県高崎市)
榊原麻紀  (25歳、無職、山梨県笛吹市)

【事故の真相】
 なぜ無人の乗務員室から発火したのか。また、それが一気に車両を焼き尽くす炎となったのか。事件の謎を究明するためにその後調査委員会が調べたところ、いくつかの重大な過失が発見された。
 最初に煙が目撃された乗務員室の制御盤の部分の下には、乗務員の勤務を快適にするために電気ファンヒーターが組み込まれていた。これは家庭用のものを改造して設置したものだが、その取扱説明書には、「乗り物では使用しないでください」とあった。燃焼を免れた下りケーブルカーの同じヒーターを調べたところ、電熱線のホルダーが壊れており、これがプラスチックに触れれば火が発生すること、しかもこのタイプのヒーターには同じ欠陥があることも分かった。では、これが急速に燃え広がった原因は何か。
 ケーブルカーの線路を調査したところ、トンネルに入る前に、油のような液体が付着しているのが発見された。これを詳しく分析したところ、電車のブレーキオイルに使われるのと同じ、油圧オイル(非常に燃えやすい)であることが分かった。ケーブルカーには燃料ではないが、120ℓの油圧オイルが使われていた。乗務員室の制御盤には、油圧圧力計があり、それを動かすオイルパイプはあのファンヒーターの数センチ後ろを通過していた。専門家はオイルが漏れる可能性はゼロではない、と証言した。
 以上から、以下の状況が推測された。ケーブルカーが発車する前からすでにオイルは漏れていた。ファンヒーターは停車するとオンになるので、駅舎内では作動していた。設計ミスのせいで、発車前には過熱状態にあった。発車するとヒーターは止まるが、その時すでに火はついていた。最初に目撃された煙はこれになる。そしてすぐ近くのオイルパイプを融かし、オイルが一気に流れた。これは床を濡らし、線路の上にも落ちた。
 トンネルに入ると床に落ちていたオイルに引火し、乗務員室の炎は一気に拡大した。そして油圧ブレーキシステムの油圧が漏れによって20%下がると自動安全装置が作動し、ケーブルカーは自動的に停止した。さらに炎が線路のそばを走るケーブルを融かし、通信システム、山全体の電源系統がダウンした。ここで最前部にいた乗務員は操作を手動に切り替え、内蔵バッテリーでドアを開けた。この操作により、乗客の全員は車外に出ることができたのだが、最初に窓を破って脱出した12人が下に向かったのに対して、全員が炎を逃れるために2700m上にあるアルピンセンター駅に向かい、これが命を落とすこととなった。多くの乗客は車両の15m以内近くで亡くなっており、サンドラシュミットも車両から62m、最も上まで登った者でもわずか142m(日本人の佐瀬智寿さん(14))だった。これは一酸化炭素などの有毒ガスによるものだった。さらに約30度の傾斜のある狭いトンネル内に高温の熱が加わって物理学でいうところの煙突効果が発生し、煙は時速144km(風速40m/s)に達し、アルピンセンターの従業員3名の命を奪った。
 過去100年間、火災が発生したことがないケーブルカーに対しては、もともと基本的な安全設備が欠けていたことがあわせて指摘された。下記の状況であったにもかかわらず、「安全基準を満たしていた」ことが裁判で重大な争点となった。
・車内には煙感知器はもちろん、火災報知機もなかった
・消火器は乗客の手の届かない、乗務員室にあった
・乗客から乗務員への連絡手段はなかった
・非常停止スイッチ、停止時の手動開閉レバー、脱出道具(窓ガラスを割るなど)もなかった
・油圧ブレーキシステムと内蔵バッテリーそのものが火災の危険性があった
・制御盤の下に、オイルパイプの近くに家庭用ファンヒーターを組み込んで設置した
これを受けて、アルプス全体でケーブルカーに対する安全基準が大幅に見直されるようになったが、あまりにも遅かった。

ケーブルカー火災 ケーブルカー火災
 インスブルックのスキー場のケーブルカー内乗務員室。
左が酸素マスクのケース、下に消火器と車両用暖房装置。
このケーブルカーはほとんど屋外を走るのだが
 同じ車両の客車部分。消火器が並ぶ。
左の赤い袋は防寒用毛布だ
   
  【事故のその後】
 2002年6月、ザルツブルク地裁で公判が行われた。運行会社の弁護側は「当時の段階でのケーブルカー運行のための安全基準を満たしており事件は予測不可能なものだった」とした。
 2003年10月、事故はケーブルカーに違法に設置されたファンヒーターの故障が原因とする新たな鑑定書をザルツブルク地裁に提出された。地裁は本格的に公判を再開した
 2004年2月、オーストリアのザルツブルク地裁は容疑の証明が不十分として、被告16人全員を無罪とした。
 2004年9月、検察側は「国際基準に基づく安全対 策が取られなかった過失責任は免れない」として、ケーブルカー運行会社幹部や交通省責任者ら8人について控訴
 2005年9月、リンツ高裁は「控訴を支える理由はない」として控訴を棄却し、業務上過失致死罪などに問われた被告8人全員の無罪を言い渡し、8人を含む被告16人全員を無罪とした1審判決を支持した。同国の通常の刑事裁判は2審制で、これが確定判決となり、155名が死亡した事故の責任はだれもとらないことになった。
 ドイツメディアは、カプルン裁判の裁判官が副業で観光業に携わっていたこと及び鑑定人の一人がオーストリア交通省と利害関係にあったことを指摘し、オーストリアの司法が自国の観光業を守るために犯罪を揉み消したと批判している。(実は線路の上にあったオイルのようなものが、車両から漏れたものであるという分析結果は裁判が終わってから判明したもので、それまで意図的に秘匿されていた疑いがある)。 一方、日本人犠牲者遺族は、在オーストリア日本大使館(田中映男大使)は遺族に対する情報提供及び支援を十分に行っていないと非難した。
 遺族らは民事による賠償に関する訴訟においても結局和解の方向となり、2008年には補償金総額1390万ユーロ(約23億3000万円)の和解案に全遺族らと同国政府、ケーブルカー会社などが同意したと発表した。ただし額は非常に少なく(単純に割って、1人1500万円)、遺族らは世界標準をはるかに下回るもので、決して納得できるものではなかった。
【カプルンへ行く】
 2000年11月、この事件があった時、私はスキー1級を取得して3年目、海外も前年にツェルマットに行って、ヨーロッパアルプスの広大さに新たな発見をしたころだった。またこのホームページを立ち上げたのも2000年12月だったので、海外スキーへの関心も高まっていたころだ。「11月から滑りだしたいなら、ヨーロッパの氷河スキーだな。」スクールの先生に聞いた言葉だ。秋頃探してみたら、確かに3つくらい開催されるようだが、すべてレーシングキャンプであり(オガサカスキー主催である、この出口氏のキャンプも含まれていたと思う)、私はレース競技はやらないので申し込むことはなかったが、3つとも場所がオーストリアの別々の氷河だったので、オーストリアの選手が強いのは場所に恵まれているからだな、と納得したものだ。しかし、もしも通常の観光スキーだったら、参加していた可能性があった。私の大学の後輩の女子2名も亡くなっていたこともあり、その後裁判が長引いて遺族がスキー雑誌に、オーストリアにスキーに行かないよう広告を出稿することがあると、とても他人事のように思えなかった。私自身、そんなタイミングでサイトにオーストリアレポートをUPすることも考えると、あまり行く気にもなれなかったし、それよりもグリンデルワルトやコルチナなど、ヨーロッパには他に行きたい海外スキー場もあったので、オーストリアは私の中で長く封印されていた。
 だが、2010年になった今年、すでに一応の和解はみたことと、そろそろオーストリアにも行ってみたいこと、3月に転職し、2月は有給休暇を消化するために1ヵ月の休み(定年退職までありえん)があったことが誘因となり、仕事を持つ嫁さんを家に置いて2週間近くオーストリア・ドイツのスキー場巡りをすることになった。そして当然、このカプルンも訪れることになる。
【ゲデンクシュテッテ】Gedenkstätte
ゲデンクシュテッテ
 ゲデンクシュテッテの入り口。扉はちょっと重いが
自由に開けて入ることができる
ゲデンクシュテッテ
 入り口すぐにレリーフがあり、
その裏が・・・
カプルン 追悼施設
 採光はステンドグラスのような
カラフルなグラスパネルを通して
カプルン 追悼施設
  グラスパネルは1人1枚。欧米人は
写真を貼る人が多い。
 
 カプルン 追悼施設  
  突きあたりの窓から見えるケーブルカー
の線路とトンネル
 
 カプルン 追悼施設  
 突きあたりの窓から入り口を振り返って。
実際にはもっと薄暗い
 カプルンのケーブルカーの線路は残ってはいるものの、トンネルは閉鎖されて現在は使われていない。代わりに新たに24人乗りのフニテル(2本ケーブルのゴンドラ)が開通、15人乗りゴンドラとともに営業運行している。
カプルンは冬場のスキーだけではなく、オーストリア最高峰グロースグロックナー(3674m)が見えるキッツシュタインホルン展望台への観光と、氷河を利用した夏スキーが有名で、夏でも観光客が多く、ゴンドラは通年稼働している。
 事故直後は駅に十字架が立てかけられ、花や写真が自由に置かれている状態だったが、その後ケーブルカーが見える駐車場の脇に追悼施設が建てられた。名称は単にゲデンクシュテッテという。
Gedenkstätteとは「記憶すべきところ」つまり「記念館」という意味だが、日本語の記念館とは多少ニュアンスが異なる場合もある。ベルリンの森鴎外記念館はMori-Ôgai-Gedenkstätte そのままで日本語とのイメージと一致している。だが、ゲデンクシュテッテの代表といわれるミュンヘン郊外のダッハウ収容所はポーランドのアウシュビッツと並んでナチの犯罪を忘れることなく後世に伝える「記念館」だ。そこで何か歴史的な事件、事故があった場合など、それを忘れないように記念するものがゲデンクシュテッテと呼ぶ場合がある。
 ただし、このカプルンのゲデンクシュテッテは2000年のケーブルカー火災事故そのものの説明やその他の展示物は皆無で、純粋に「追悼施設」の意味が強く、日本人が「記念館」と聞いて想像するものとは異なる。

 私が行ったのは、2010年2月7日の日曜日だった。ザルツブルクからのスキーバスの目的地はツェルアムゼーのスキー場だったので、到着後、私一人がスキー板とともにタクシーでカプルンに来て、ゴンドラに乗る前に訪れた。場所はゴンドラ駅の上、駐車場の脇にある。
 建物は何かの倉庫かと見間違えるような作りだ。ドアを開けると「2000年11月11日のトンネル火災犠牲者155人の冥福を祈って」を6カ国の言葉で書いたレリーフがあり、その裏には薄暗く、濃密な空間が広がっていた。コンクリートの打ちっぱなしで、窓には155のカラーの細長いグラスパネルがはめられ、一つ一つに名前が書かれている。このパネルの部分には遺族や友人が置いたのか、故人の生前の写真が置かれていて、非常に生々しい。どれも若く、笑顔であふれていた。日本人のパネルは入って右側のやや入り口近くに並んでいるが、写真が貼られたものは無く、花やロウソクなども無い。枯れた花や湿って変色したタバコが数本置いてあったりしたが、おそらく外から買ってきたか、供え物として故人が好きだったタバコをおいていたのだろう。オーストリア人、ドイツ人と比べれば訪れる人も少ないのだろうが、少し寂しい気がした。
 私は日本から持ってきた線香を数本ずつ火をつけて日本人のパネル前に立て(宗教上のことでもあるので、他国の人には控えた)、残りは出口デモのパネル前にライターと一緒に置いておいた。後から来た人が供えてくれただろうか。大学の後輩のパネルの前では名前を見ただけでも身につまされる思いだった。若者が亡くなるというのはよくないことだ。

 ところでこのゲデンクシュテッテという施設は「過ちを反省し、繰り返さない」という意味ではとても意味があると思う。この事故が予測不可能な偶然ではなく、起こるべくして起こったからだ。事件を風化させ、忘れ去られることが無いように、犠牲者の死を無駄にしないためにも必要な発想だ。
 もうひとつ、犠牲者の数だけのグラスパネルを使ったことは大切なことだ。155ものグラスパネルがそれぞれの色の光を放って並んでいると、全体が荘厳な無言の叫びをあげているかのようだ。さらに、155という人数がどれだけ大勢で、しかもそれぞれに将来の夢や家族の落胆がついていたかと思うと、あらためて事件の重大さが感じることができる。
 ところで繰り返しになってしまうが、このカプルンのゲデンクシュテッテは純粋な追悼施設であり、事故に関する一切のドキュメントが無く、なぜこのような事故が発生したかについては、記録しておく必要があるのではないかと思った(調査中、裁判中という理由があったのかもしれないが)。
 日本では人為的ミスによる大事故があった場合どのようになるのだろう。2005年4月25日のJR西日本福知山線脱線転覆事故で107名の犠牲者と562名の負傷者を出したが、何かゲデンクシュテッテみたいなものはできるのだろうか。そういう忌わしいことは忘れましょう、とかになるのだろうか。まあそれはいいとして、この事故を風化させず、忘れないためにも、施設は永続してほしいし、もしツェルアムゼーに行く機会があったら、ぜひカプルンのゲデンクシュテッテも訪れてみてほしい。

カプルン 追悼施設 カプルン 追悼施設
  入り口のレリーフ   日本人のパネル。右の緑色が佐瀬智寿(14)、左の黄色が
出口沖彦(42)その左に出口奈央(13)があった
カプルン 追悼施設 カプルン 追悼施設
     欧米人は写真の他、何か物を置くことが多い    まだ幼い子供の写真も
 
カプルン 追悼施設 カプルン 追悼施設
   写真は多いが、日本人のものには、1枚も無かった。
これも文化の違いか
  キリスト教らしい、天使の彫像も並んでいた
 
 
カプルン 追悼施設 カプルン 追悼施設
  お線香をあげてきました   外から見たゲデンクシュテッテ。
グラスパネルの列が並んでいる
   
【ギャラリー】
カプルン
 ゲデンクシュテッテとケーブルカーの線路。
あの山の向こうにスキー場がある
カプルン
  ゴンドラ乗り場とケーブルカーの線路、トンネルの入り口
カプルン 追悼施設
 ゲデンクシュテッテの一番奥から、入り口方向を振り返って。
実際にはもっと薄暗かった
キッツシュタインホルン
   彼らが目指していたキッツシュタインホルン氷河のスキー場。
夏でも滑ることができるので欧州の選手などがトレーニングに使う
カプルン
   ゴンドラを降りてきたところ。右下にケーブルカーの線路、その左のケーブルが最新の24人乗り。
写真右端の中央にある、道路脇の施設がゲデンクシュテッテ
 
 
Wikipedia Kaprun disaster(ウィキペディア<英語> カプルンの悲劇)

You Tube のこの事故についてのドキュメンタリー映像(英語)

このサイトのカプルンスキー場の滑走記

ゲデンクシュテッテ【動画です】
ゲデンクシュテッテの内部を撮影しました。
雰囲気はよく分かると思います。
(写真をクリック)
カプルン 追悼施設【動画です】
日本人10名のパネルです。
お墓を撮影しているみたいで気が引けたのですが、
カプルンまで訪れることができない人のために
撮影しました。
最後、日本人のとなりにはサンドラシュミットのパネルも見えます。
あげたばかりのお線香の煙が立ち上っています。
(写真をクリック)

【その後】 
 前述の和解案について、事故責任が不明確であり、オーストリア政府や運行会社の対応に問題があるなどして、日本人遺族らは拒否。日本人32人を含む160人以上の遺族が米国での訴訟などを継続している模様。


【余談】
・たった一人で30分以上も中にいたが、かなり圧迫感があるものだ。スキー帰りに立ち寄る人もいるらしい。ただ し内部には照明がなく、外部の光がグラスパネルを通って入るだけなので、夕方行く人は注意だ。
・お線香を立てる道具がなかったので、どなたか行かれる人は持って行ってみてください。
・コンクリート打ちっぱなしの内部と場の雰囲気、長野県上田市の無言館を思い出しました。
 
HOMEスーパーエッセイ! > オーストリア ケーブルカー火災事故